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2026.11.01 台湾慰霊 閲覧数 0

台北・西門町の裏に、日蓮宗のお寺が残っていた。今も生きている台北法華寺

台北のど真ん中に、日蓮宗のお寺が今も生きています!

台北法華寺。若者でにぎわう西門町から南へ歩いて10分、西寧南路に面した黄色い壁のお寺です。明治30年に日蓮宗が艋舺に開いた布教所が始まりで、台湾に残っている日本式の仏堂では現存最古と言われています。台北観光の王道からは完全に外れたマニアックな場所ですが、台北から一番近いお寺になりますので意外とすぐ行けます。

今年の夏にお参りしてきましたが、台北の夏は暑い。常に湿気90パーセントという蒸し暑さです。

西寧南路側から見た山門。黄色い外壁が目印です
西寧南路側から見た山門。黄色い外壁が目印です

屋根に井桁に橘

台湾のお寺といえば極彩色の屋根に線香の煙、朝から参拝の人でごった返しているイメージですが、ここは静かです。門を入ると人はまばらで、外の喧騒がうそのようでした。

屋根を見上げると、軒に井桁に橘。日蓮宗の宗紋です。うちの屋根にも付いているあの紋が台北にある、というだけで歴史とロマンを感じます。

軒先の井桁に橘。見慣れた紋が台北にありました
軒先の井桁に橘。見慣れた井桁に橘の紋

境内は昔の何分の一かになっているそうです。戦後に土地の多くを失い、裏手で火事もあって建物の姿もずいぶん変わったとのことですが、唐破風の屋根の線はそのままで、ひと目で日本のお堂だとわかります。

昭和6年(1931年)頃の法華寺山門(国家図書館「臺灣記憶」より)
昭和6年頃の法華寺山門(国家図書館「臺灣記憶」より)

明治30年、艋舺から始まった

ここで少しだけ歴史の話を。

日蓮宗が台湾に入ったのは明治28年で、軍に同行する従軍布教師が渡ったのが最初です。

明治30年に艋舺に布教所ができました。これが台湾で最初の日本式寺院です。開いたのは佐野是秀上人、のちの法華寺初代住職です。

明治41年に艋舺の区画整理で立ち退きになり、明治43年に若竹町、いまの西寧南路の突き当たりに移って新しいお堂が建ちました。いまの本堂は大正8年のものです。

戦前の絵葉書に残る法華寺山門
戦前の絵葉書に残る法華寺山門
同じく絵葉書の本堂内。中央に大太鼓が見えます
同じく絵葉書の本堂内。中央に大太鼓が見えます

山号は南海山。ご本尊は十界曼荼羅で、日蓮聖人、妙見菩薩、鬼子母神、経王大菩薩、清正公などをお祀りしていました。台湾全体の布教を取りまとめるお寺であったそうですから、台湾の日蓮宗の本部と言ってよいお寺でしょう。

百度石と題目碑

山門を入ってすぐのところに、腰の高さほどの石柱があります。百度石です。

ことば

百度石(ひゃくどいし) お百度参りの起点になる石柱。ここと本堂のあいだを100回往復して祈ります。

百度石。上の穴に銅片が入っています
百度石。上の穴に銅片が入っています

門の外には「南無妙法蓮華経」の石碑。台座に昭和5年のお会式の日に当時の岡田住職が建てたとあります。高さは3メートル近くあります。日本のお寺の跡は戦後ほとんど壊されましたから、日蓮宗のものが台北市の文化財として残っているのは本当に有難いことです。

「南無妙法蓮華経」碑。2011年に台北市の文化資産に
「南無妙法蓮華経」お題目碑。

岡田榮源上人という僧侶

このお寺の2代目住職に、岡田榮源上人、のちに日惺上人と呼ばれる方がいました。

明治26年に大阪で生まれ、3つになる前にお父さんを亡くし、11歳で岡山県長船の妙興寺に預けられて岡田日寛上人のもとで得度されました。26歳で朝鮮の布教師になられます。

岡田榮源(日惺)上人(『生死の海』口絵より)
岡田榮源(日惺)上人(『生死の海』口絵より)

大正15年の夏、台北法華寺の佐野住職が亡くなったという知らせが東京の宗務院に届き、次の住職に任命されたのが榮源上人でした。このとき33歳。家族を連れて台湾へ渡っています。

大正15年9月10日付の辞令(妙興寺所蔵)
大正15年9月10日付の辞令(妙興寺所蔵)

昭和4年から足掛け3年かけて塀、庫裡、祖師堂を新築し、昭和6年には日蓮聖人の650遠忌に合わせて本堂を増築、位牌堂も建てたと当時の文献にあります。

650遠忌の本堂。幕に井桁に橘の宗紋(昭和6年、『生死の海』口絵より)
650遠忌の本堂。幕に井桁に橘の宗紋(『生死の海』より)

昭和7年の冬には日本へ戻って千葉の中山法華経寺で100日の荒行に入り、翌年2月10日に満行して台北へ帰っています。

荒行成満の帰台を迎える檀信徒(昭和8年、『生死の海』口絵より)
荒行成満の帰台を迎える檀信徒(『生死の海』より)

ことば

荒行(あらぎょう) 日蓮宗の僧侶が千葉・中山法華経寺で行う100日間の修行。11月から2月まで、1日に7回水をかぶり、読経を続けます。これを終えた僧侶がご祈祷を修することができるようになります。

◆岡田榮源上人の最後

昭和18年に東京の宗務院を訪ねたあと、榮源師は台湾へ帰る高千穂丸に乗ります。基隆まであと1時間という所で魚雷を受け、船は数分で沈みました。1,000人余りの乗客のうち助かったのは100人ほど。生き残った人の話によると、上人は溺れかけた子どもを次々に抱え上げて浮標につかまらせ、筏に乗せ、自分の救命胴衣まで譲ったうえで、右手に数珠を握り、南無妙法蓮華経を高らかに唱えながら波に沈んでいかれたそうです。50歳でした。

高千穂丸。昭和18年3月19日、基隆沖で沈没(『生死の海』口絵より)
高千穂丸。昭和18年3月19日、基隆沖で沈没(『生死の海』より)

『台湾日日新報』は、こう見出しを打ちました。

衆生済度へ今日蓮 身は従容と波に消ゆ

『台湾日日新報』昭和18年4月21日
昭和18年4月21日付『台湾日日新報』(妙興寺所蔵)
昭和18年4月21日付『台湾日日新報』(妙興寺所蔵)

翌年、作家の西川滿がこの上人の生涯を小説にしました。それが『生死の海』です。これにはお上人の生涯と台湾に対する思いが記されています。

『生死の海』(平成9年復刻版)の表紙
『生死の海』(平成9年復刻版)の表紙

戦後も仏さまは残っていた

敗戦で日本人の僧侶も檀信徒も引き揚げて、法華寺は空っぽのお堂になりました。土地は人手に渡り、本堂の裏は火事で焼けています。

しかしながら、堂内にはいまも日蓮聖人のお像、曼荼羅、鬼子母神、清正公がお祀りされています。改修のときの扁額には、浄財を寄せた岡山県妙興寺の名前が刻まれていました。

本堂内陣。日蓮聖人像や鬼子母神、清正公がいまもお祀りされています
本堂内陣。

本堂の大太鼓には日本時代の寄進者の名前と並んで「岡田榮源」の名が彫ってあります。位牌堂には上人の写真も掛かっています。80年たった今でも、台湾の人たちが大事に守ってくださっていました。

位牌堂に掛かる岡田日惺上人の写真(2013年)
位牌堂に掛かる岡田日惺上人の写真

台湾に残る日蓮宗ゆかりの4ヶ所をまとめた記事「台湾に残る法華の足跡をたどる。台北・台中・高雄・鵝鑾鼻。」もあわせてどうぞ。

アクセス

アクセス

寺名 台北法華寺(財團法人台北法華寺)

住所 台北市萬華區西寧南路194號

最寄り MRT板南線「西門」駅から徒歩約10分。「龍山寺」駅からも歩けます

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