國相寺ものがたり
A story of Kokusoji
当山の歴史は、現在より遡る事約360年前、江戸時代中期万治年間に開山開基日勝上人・等覚院日序上人によって佐賀県の小城市にある勝妙寺の隠居寺として建立されたのが始まりとされています。当山は、明治42年に本堂を火災により焼失している為、詳しい記録は残っておりません。しかし、大正11年正憲院日泰上人によって荒廃したお寺を復興させ、現在の基盤を作りあげられ、昭和35年その長男静明院日完上人の活躍もあり、インドの「仏舎利塔」とギリシャの「パルテノン神殿」の造りを融合させた、当時としては珍しいコンクリート造の本堂として再建しました。 現在は、山門や佛子会館等の境内整備を行い寺観を一新しました。本堂内部には一尊四士を中心とし、九州最大級の鬼子母神、大黒尊天、七面大明神、三十番神、北辰妙見大菩薩、清正公等多くの諸天善神を勧請しております。
鬼子母神
KISHIMOJIN
霊山帰りの鬼子母神
御祈願・御祈祷の神様として広く信仰の対象となっている鬼子母神には深い由来があります。鬼子母神様はその昔、インドで訶梨帝母(カリテイモ)と呼ばれ、沢山の子供をもつ一人の母でありました。しかしながら性質は鬼のごとくに悪く、他の幼児をとって食べるので人々から恐れ憎まれました。お釈迦様はその過ちから帝母を救うことをお考えになり、帝母の愛娘のピンガラさんをお隠しになりました。愛娘が見当たらない帝母の嘆き悲しむ様子はこの上なく、お釈迦様は、 「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」とこの様に言葉を残して戒めました。そこで帝母ははじめて今まで自分のしてきた過ちを悔やみ、反省しました。 そしてお釈迦様に帰依する事を心に決め、自分のしてきた事とは逆に、人々の守護の善神となることの誓いを立てられ、忽ちに人々に尊崇されるようになったとされています。当山の鬼子母神像は、その仏道に帰依したすぐ後、お釈迦様から愛娘のピンガラさんを返してもらい、お釈迦様のいる霊山から帰るお姿を現したものです。それが「霊山帰り鬼子母神」と尊称する由来であります。そして現在では鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、法華経を信じる人の御祈祷・御祈願の守護神として崇められています。
國相寺の大楠
Camphor Tree
別名を奇木(くすしき)とも呼ばれる楠の木は枝を四方八方へ伸ばし、まるで森の中にいるかのような大きさに圧倒されます。楠の木は古くから神社やお寺では御神木として人々の信仰の対象とされてきました。 当山の楠の木は、およそ樹齢800年と言われ、鎌倉時代にこの地に根を下ろした事になり、それ以来自然災害に耐えつつ、今日この雄大な姿を保ち続けています。当山の創建は、およそ350年前と言われ境内にありながら、450年余り先住としてその威容を伝えています。現在、佐賀市の天然記念物の指定を受けている國相寺の楠の木は、古来より多くのお参りがありました。そして当山では御神木として大切に管理され約230年前に、楠の木にお稲荷様が祀られるようになり、その後は楠森経王稲荷大明神として御堂に祀っております。そして楠の木には、「進行が遅くても最後には必ず大成する」という教えがあり、楠の木の成長に学ぶものがあります。 また現在は御神木である楠(奇木)から発する霊気を感じる人もあり、パワースポットとして参拝者が増えています。