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水子供養は誰のため?何のため?僧侶が考える水子供養の意味とは

「暑さ寒さも彼岸まで」の通り、朝晩は涼しくなってきましたね。

さて、お彼岸=心の洗濯週間ですので、一つ水子供養について思う事をつらつら書かせて頂きます。


水子供養とひと言にいってもその水子さんができてしまった原因は千差万別でケースバイケース。

さまざまな理由で流れてしまう命、名前も命日もわからず亡くなる命が沢山あります。


私自身は男性ですが、私の生まれてくる前の命が流産で水子になってしまったことと、1児のパパとして、水子供養を巡るそうした戸惑いや悩みはもっと表に出るべきでは?と思っています。


生まれてくることのなかった胎児の冥福を祈る水子供養。

重いテーマにはなりますが、関係のある方はぜひ読み進めてください。

親を苦しめる「社会と気持ちのギャップ」

私の体感ですが、水子さんはかなり沢山います。

3人に1人くらいの割合で女性の、年を重ねれば重ねるほど多い気がします。


表立っては皆さん水子さんがいますとは言わないですが、生まれてくる命があれば、生まれられなかった命もあるということです。

それだけ、自分の命を含めた、「生きている」「人間として生まれる」ということがどれだけの奇跡なのかということを改めて人間は感じながら生きていかないといけないと思ってます。


当たり前すぎて世の中の動きとは真反対に位置することかもしれません。

しかも、流産や死産、中絶で亡くなった胎児は、法律上は「かつて生存していた人」とはみなされません。

出生届を出さないため戸籍に記載されることもありません。

誰にも言わなければ、「存在していなかった」という扱いです。


ですが、生まれてくるはずだった我が子を失った親の気持ちはまったく異なるはずです。

たとえ一時とはいえ胎内に宿り、親子の関係にあったはずの子どもの存在は、心の中にいつまでも残り続けます。


亡くした子どもに対する法的(社会的)な認識と、当事者である親の捉え方とがこのようにあまりに違いすぎることが、親を一層苦しめているように感じられます。

水子供養は気持ちの整理をつけるため?

水子供養もただすれば終わりというものではないです。


水子供養は亡くなった赤ちゃんのためであると同時に、苦しむ親御様のためという側面が確かにあります。

実際に、前述したような法的解釈と気持ちとの乖離(かいり)だけでなく、生まれてくるはずだった子どもに対する罪の意識に苦しむ方は多いです。


言うまでもなく、流産や死産は誰のせいでもありません。

自ら中絶を決断したのだとしても、それはどうにもならない事情あってのことでしょう。


それでも「せっかく授かった小さな命を守れなかった」「自分のせいだ」という罪悪感を持ち続ける方が少なくないのが実情です。


ですが、どうか苦しまないでください。

自分を責めないでください。


水子供養を通じで、命の大切さや、親としての意識など沢山のことを学び、亡き子の分まで一所懸命に生きる自分の命を大切にし、命の繋がりを大事にしていくこと

これが水子さんが一番喜ぶことなのではないでしょうか。

僧侶の考える「なぜ水子供養をするのか?」

水子供養の本質は、生きてあいまみえることの叶わなかった子どもの供養です。

それが結果として、親の気持ちを支えることになっています。


人生100年生きる人もいれば、1日で終わる命もある。

その命は長いからいいということではなく、いかにその命を輝かせるかです。


この世に生まれてくることのなかった水子なのに……という考え方もあるかもしれません。

ですが、抱っこされることも、名前をつけてもらうこともなかった水子だからこそ、丁寧に供養をしてあげることでその子の命に大きな意味を持たせられる、その子の使命が果たされると確信しています。


もしも水子供養をすることを決めたなら、親自身をはじめ周囲の人々の心を明るく灯してくれていたことに対する「ありがとう」の気持ちを込めて、ねんごろに供養してあげてほしいと思います。


なにか重くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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